Flickrとはてなフォトライフ・アゲイン

ずいぶん前に『Flickrとはてなフォトライフ』というエントリを書いたのだけど、その後、フォトライフは一度容量アップした。でも総容量制限は変わらず、特に興味がなかったので、改めて比較することはなかった。
今回、はてなフォトライフの総容量制限が無くなったので、また比較してみたい。


はてな(無料)はてな(有料)Flickr(無料)Flickr(有料)
料金無料180pt/月無料$24.95/年, $47.99/2年
総容量制限無制限無制限無制限
アップロード容量制限30Mbytes/月3Gbytes/月100Mbytes/月(10Mbytes/1枚)無制限(20Mbytes/1枚)
分類機能フォルダ・タグphotoset(3個まで)・タグphotoset(無制限)・タグ
アクセス制御機能フォルダ毎にid指定/なぞなぞ認証が可能写真毎にFriendsかFamiliyの指定が可能
表示枚数制限無制限200枚まで無制限
解像度制限無制限有り無制限
写真入れ替え機能無し無し有り
blogとの連携はてなBlogger/Typepad/Movable Type/他
お気に入り機能有り
地図連携連携はてなマップYahoo! Maps
言語日本語英語
フォトライフ、悪くないね。Flickrよりも安いし。一ヶ月に3Gbytesもアップロードできれば充分かも。 Flickrの契約が切れる頃に、移行を考えようかな。 追記:Flickrとはてなフォトライフ・アゲインその2 - thinkin’ in the brain』に、やっぱりいまいちだと思った旨、書きました。

10年後の自分に「タキオンが見つかったよ」って言われたら多分信じる

はてなハイクの「10年後の自分に言われても信じられないこと」に、「タキオンが見つかったよ」とか書いたんだけど、後から考えるとそんなこと無いかなと思って。
ハイクは大喜利的なところがあって、本気で思ってなくても投稿しちゃうこともある。あんまり受けなかったけどね。


タキオンというのは、超光速で運動する仮想粒子。
特殊相対性理論によると、速度が上がるほど時間の流れが遅くなり、光速に達したところでついには時間が止まってしまう。光速を超えると今度は時間が逆行し、そんなことはありえんだろうということで、光速を超えることはできないということになっている。
だから、タキオンが見つかるということは、相対性理論を覆す現象が発見されたということ。いや、タキオンの時間が逆行しているなら、覆されたとは言い切れないか。
いずれにしても、事実だった方が、おもしろいじゃない。
超光速移動と、タイムトラベルができるかもしれない。
その前に「10年後の自分」が目の前にいることを信じなければならんわけだが。つまり、タイムトラベルが実現されることを。


星野之宣氏の、なんて作品だったか。
相対性理論を覆す現象が発見されて、それを確認したある科学者が、がっくりと老け込んでしまうというお話があった。
でも、本物の科学者は多分がっくりしない。興奮して、これを解明してやろうと意気込むと思う。
科学理論というのはすべて仮説にすぎず、観測されている現象をもっともうまく説明できるものが、真実に近いものを表しているとされる。科学者が、それを認識していないとは考えられない。




Spirit of Wonder

Spirit of Wonder

鶴田謙二

そういえば、SFで、光速を超えられるとする作品はあんまり見ない。火浦功氏の歯磨き対決の作品はそうだったかな。
ワープとかハイパードライブとかいわれるものは、超光速移動ではない。あれは、高次元などの特殊な空間に入り込み、「近道」することによって、通常空間では光速を超えないかぎり達成できない時間で目的地に辿りつく技術。
時間移動はわりとよくある。ところが、時間を逆行できるということは、光速を超えられないとする根拠が無くなっているということ。
サイエンス・フィクションといっても、「フィクションのサイエンス」って少ないんだな。鶴田健二氏の『Spirit of Wonder』はエーテル推進なんてあって、SFって現在の科学を無視していいんだ、ってウロコ落ちる思いだったが。

『恐るべき旅路』(松浦晋也)



恐るべき旅路

恐るべき旅路

火星探査機「のぞみ」のたどった12年

松浦晋也

2003年12月9日、火星衝突を避けるためのコマンドを最後に、火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道への投入は断念された。


『恐るべき旅路』は、航空・宇宙関係を専門とするノンフィクション・ライター松浦晋也氏による、宇宙科学研究所(現・宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究本部、略称「宇宙研」あるいは「ISAS(アイサス)」)による日本初の惑星間探査プロジェクトである、火星探査機「のぞみ」苦闘の記録と、なぜそのようなことになったか、どうするべきであったか、これからどうするべきかの考察である。
厳しい条件、さまざまなトラブルを乗り越え、「のぞみ」はようやく太陽を周回する火星軌道に到達する。
これは、日本の宇宙開発へのエールである。


エールであるが、「のぞみ」が陥っている苦境について宇宙研内で箝口令が敷かれたことに、松浦氏は珍しく、厳しく批判する。
曰く。
「のぞみ」は国民の税金で打ち上げられたものである。であれば、その状況は国民に報告されるべきである。
「のぞみ」のバランスウェイトに貼り付けられた小さなアルミ板には、27万694人の署名が縮小コピーされて記されていた。「あなたの名前を火星へ」キャンペーンに応募された名前である。そこには、さまざまな思いが託されており、それを無視してはならない。
そして、「のぞみ」の苦境は、広報的には実はチャンスであったのに、それを見逃した。


NASAがマーキュリー、ジェミニアポロ計画と連なる初期宇宙開拓において、湯水のように金を使えたのはなぜか。米国民がそれをよしとしたからだ。その金は税金であり、国民が認めないことに対しておおっぴらに使うことはできない。旧ソ連との冷戦が国民感情に大きく影響しているだろうが、それも含めて国民が「宇宙へ」と思ったから、あの計画は実行できた。
当然、国民が興味を失えば実行は不可能になるのであり、月有人探査に成功し、旧ソ連との宇宙開拓競争において勝利が決定的になってから、NASAの予算は大きく削減された。
そして、国民の目を宇宙に向けてもらうためには、広報は大変重要なのである。


宇宙は、人間の都合などお構いなしだ。
「なぜ宇宙は、こうも人間の生存に適した形で創造されたのか」だって? 偶然だ。重力定数がわずかでも小さいか大きいかしていたなら、人間はいなかっただろう。でも宇宙にとっては、まったく問題ない。
宇宙を探るというのは、偶然に存在している人間が、その限界を広げるということだ。
そのためには、宇宙の都合に合わせる必要があり、必然的に探査プロジェクトは挑戦的なものになる。
挑戦的なプロジェクトにはさまざま難関があり、それを乗り越えることはひとつのドラマであろう。しかし、それが戦略的に条件が悪かったためのものであれば、現場は本来必要のない負担をかけられていることになる。ぎりぎりの予算、短い開発期間、限界を超えた軽量化などは、不要な負担を開発現場にかけ「のぞみ」の寿命を削っていった。
不要なドラマが発生するプロジェクトというのは失敗である。ミッションの成功をもって、プロジェクトの成功と誤認してはならない。


で、あるのだが。


プロジェクトなんたらいうNHKの番組は観たことがないのだが、聞くところによると、ドラマチックなプロジェクトのドキュメンタリーらしい。人気がある(あった?)ようなので、ドラマチックなプロジェクトというのは、見ている分には好まれるらしい。
「のぞみ」の苦境がどのようなものだったか、挙げてみよう。
M-V(ミュー・ファイブ)ロケットの搭載可能質量に制限される軽量化への挑戦。地球を利用したパワー・スウィングバイが、バルブの不具合により失敗。そのための燃料の不足。それをリカバーするための、軌道設計の魔術師による芸術的な軌道。その後、通常の送信モードに切り替わらなくなり、ビーコンを発することしかしなくなった「のぞみ」。そのビーコンをコマンド応答に利用して、YES or NOを応えさせる1ビット通信の考案と、気の遠くなるようなその実行。ヒーターが停止したことによる推進剤の凍結。
次々と「もうおしまいだ」と思わせるようなトラブルが発生し、それにエンジニアが命を削って次々と対処し、最終的に「のぞみ」は太陽を周回する火星軌道まで行った。そして、最後の一押し、火星を周回する軌道への投入ができなかった。
非常にドラマチックなのである。
これが逐一公開されていたなら、多くの反響があったに違いない。実際、読売新聞に苦境をすっぱ抜かれてから、宇宙研は広報活動を再開し、その結果、さまざまな応援メッセージが届くようになった。


繰り返すが、この本は、日本の宇宙開発・探査へのエールである。
松浦氏は、時に厳しく批判しながらも、宇宙を目指すべきだという姿勢を決して崩さない。
大金がかかっているといえば、確かに一国民にとっては大金だ。でも国にとっては? JAXAの予算は、GDPにして日本の約2.5倍の米国NASAの1割強、日本の道路財源の1割にも満たない。(文部科学省平成20年度概算要求主要事項(PDF)平成20年度道路関係予算の概要(PDF))
国産ロケットはなぜ墜ちるのか』(松浦晋也)を読んでいても実感するのだが、これは典型的な安物買いの銭失いである。かけるべきところに金をかけないから、余計損するのだ。
半端に金かけるくらいなら、いっそのことやめてしまえ、などとは私は決して言わない。
人間の限界への挑戦云々ではない。宇宙への挑戦は、おもしろいのだ。こんなにおもしろい理系的イベントをやめてしまえという人が、子供の理系離れを嘆いているとするなら、自家撞着もいいところだ。


この本は2005年3月に、朝日ソノラマから出版された(現在は、朝日新聞社から出版され直されている)。「のぞみ」に最後のコマンドが送信されてから、1年強である。
現在、サンプルリターン型探査機としては世界初の小惑星イトカワ探査機「はやぶさ」が、イトカワへの探査を成功させ、地球への帰途についている。さまざまなトラブルに見舞われた「はやぶさ」は、その状況が逐一公開され、2010年6月に地球帰還予定だ。2011年頃には、「はやぶさ」の記録が松浦晋也氏の手によってもたらされることを、期待している。

ウェブ時代の音楽家

いささか古い記事になるが、平沢進氏によると、音楽家には補償金もDRM(Digital Rights Management、コピープロテクトと考えればいいだろう)も必要ないそうだ。


ITmedia +D LifeStyle:「補償金もDRMも必要ない」――音楽家 平沢進氏の提言


平沢氏は、1999年にメジャーレーベルを離れ、internetでの音楽配信を開始した。CDやDVDの販売もあるが、mp3のダウンロード販売があり、いくつかの楽曲は無料配信もされている。無料配信分について確認しただけだが、一切のDRMは使用されていない。平沢氏の主張からして、販売分にもDRMは無いだろう。
楽曲は、以下の条件でライセンスされている。


著作権及びライセンスについて:
楽曲、及び歌詞の著作権は、著作者である平沢進保有し、e-Licenseが管理しています。当サイトから無料配信される作品ファイルは以下の条件の下で自由にコピー、配布が出来るものとします。
(有料配信ファイルの再配布は出来ませんのでご注意ください。)

1) 作品ファイルに改変が加えられていないこと。
2) 非商用目的であること。

この作品ファイルは個人的な鑑賞を前提に配布されており、それ以外の目的で使用する場合、管理者であるe-License(http://www.elicense.co.jp/)から別途ライセンスを受ける必要があります。

これは、以下のような平沢氏の姿勢の表れだろう。


平沢氏: メジャーレーベルを辞めて自分で配信するようになってからは、作品の売れ行きは伸びて、マーケットも広がってます。無料のMP3配信を監視していると、ダウンロードが24時間止まらないんです。そうしているうちに、次は世界中からCDの注文が入ってくる。そう考えると、無料で音楽を配信すること、コピープロテクトをかけないことは、プロモーションにつながるんです。これはものすごい威力ですよ。お金を払ってまで欲しいと思ってくれなければ、やってる意味がない。違法コピーしてそれで満足してしまうようなものであれば、それは自分のせいだと。作品がその程度のものでしかないと判断する姿勢を、今のところ持っています。

すばらしいと思う一方で、それはすでに氏が名前を知られているからではないか、という疑問がずっと頭の片隅にあった。
ところが、そうでもないらしい。意外なところから、その事例を知ることができた。先日読んだばかりの『ウェブ時代をゆく』(梅田望夫 id:umedamochio)で観察されていたミュージシャン、ジョナサン・コールトンの話。


コールトンの職業はプログラマーだった。しかし彼はフルタイムのミュージシャンとして生きたいという夢を持っていた。一念発起して二〇〇五年九月、彼は仕事を辞めて(妻の収入に最初は依存)、夢の実現に挑戦することにした。曲を週にひとつ必ず書いてレコーディングしブログにアップすることにした(無償で誰もがダウンロード可能、リスナーがお金を払いたければそれも可能)。少しずつ口コミでトラフィックが増え、誘われて行うライブにも以前より人が集まる手ごたえを感じた。コツコツと地道な活動をつつけた結果、現在はブログの日々の訪問者三千人、人気の曲のダウンロードは累計五十万、月収はコンスタントに三千ドルから五千ドルとなり、生計が立つようになった。

コールトンが何をしたかは、『ウェブ時代をゆく』に詳しく書いてあるので割愛する。かなりがんばったとは思うが、特別なことは何もしていない。
コールトンのサイトに行くと、販売されている曲の3割程度が無料で提供されており、mp3 192kpbsとFLAC(Free Lossless Audio Codec)というロスレスフォーマットでダウンロードできる。
mp3の販売ページには、以下のようにある。


All of the songs on this page are 192K MP3s - they are not copy protected in any way, so you can play them on whatever device you like. Songs that I wrote are licensed Creative Commons by-nc (covers and other stuff I don’t own are not).

一切のDRMは使用しておらず、クリエイティブ・コモンズの表示-非営利(CC-BY-NC)のライセンスが適用されているとのこと。「CC-BY-NC」とは、原著作者を表示すれば、非営利に限り、自由に複製、頒布、展示、実演、二次利用が可能というライセンス。詳しくはリンク先参照のことね。
平沢氏よりも緩やかな条件で、しかし生計が立つほどの収入が得られている。
音楽をやりたいから音楽をやるような、純粋な音楽家にとって、これで充分なのではないか。補償金もDRMJASRAC音楽出版会社も必要ない。


平沢氏のインタビュー記事を読んだ印象では、JASRAC音楽出版会社との契約や委託などによって、音楽家は逆に自由を奪われているように感じる。


平沢氏: 例えばメジャーなレコード会社で活動してたとしますよね。レコーディングが終わるとある日突然、出版会社から契約書が届くんですよ。で、契約してくれと。契約条項にいろいろ書いてあるんですけど、契約書が送られて来た時点で、JASRACにもう勝手に登録されているんです。残念ながらアーティストは、著作権に関してまったく疎い。同時に私自身も疎かったがために、そういうものだと思いこんでいたわけですね。それによって、出版会社に権利が永久譲渡されている曲というのがあったりするんですよ。で、JASRACで集金されたお金は、この出版会社を通るだけで50%引かれて、アーティストへ戻るという構造があるんですね。出版会社は“プロモーションに努める”と言いますが、成果は保障せず、どんなプロモーションをするのか何度説明を求めても、回答しないことがほとんどです。大きなセールスが期待できるアーティストについては積極的に動きますが。

JASRACに勝手に登録されている」というくだりは、先日の初音ミクドワンゴの騒動を思い出させるものがある。まともなビジネスでは考えられないことが、当たり前に行われているのだろう。
例えば、JASRACが管理している楽曲は、自分で作曲したものであっても使用料を支払わなければならない。その使用料は、適正に配分されるとして、50%が音楽出版会社にさっぴかれ、手元に来るのはわずかに半額。
金儲けをしたい、有名になりたいというような「音楽家」ならば、それでもいいのかもしれない。マスを追求するなら、規模が必要だろう。音楽など二の次なのだろう。

『ウェブ時代をゆく』(梅田望夫)



ウェブ時代をゆく

ウェブ時代をゆく

梅田望夫

感想でもないし考察でもないのだけど、この本を読み終えて、自分は何か書かなければならないと思った。そこで、ひとつサンプルを提示することにした。自分の人生の点検も兼ねて。
梅田氏の想定する「けものみち」とはおそらく違うのだろうが、だから。


好きなこと。
音楽を聴くこと、小説を読むこと、漫画を読むこと、映画などの映像作品を観ること、興味深い言葉に触れること、ソフトウェアを書くこと。
このうち、金になりそうなのはソフトウェアを書くこと。しかし、「人生をうずめる」ほど好きでもない。仕事でソフトウェアを書くので、休日は別の好きなことをする。
ソフトウェアを書くのは好きだが、書きたいものが無いのだ。「こういうソフト無いかな」と思って、ネットを探しても見つからないときに、ようやく書き始める。時かけクロックスクリーンセーバーは、そんな風にして書き上げた。書き出せば、他の好きなことは放り出すんだけど。


さあ来年は何を始めようか。そう考えるのではなく「何をやめるか」を先に決めよう。それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」。
それが「来年の抱負」「今年の抱負」を真に意味のあるものにするための最重要ポイントだと思う。新しく始める「何か」を決めるだけでは、できない場合がほとんどだ。
「時間の使い方の優先順位」を変えないと、新しいことを始める時間はなかなか捻出できない。とにかく「やめること」を決めなくちゃいけない。

「好きなこと」はどれもやめられない。これをやめたら、私は枯れてしまう。
好きではないが重要なことからやめるしかないのだろう。


苦手なこと。
努力すること、知らない人と会話すること、管理すること。
苦手なことは、できるだけやりたくない。
学生時代の経験から、管理にはまったく向いていないことがわかっている。だから、昇進を求められる環境には、身を置きたくない。
知らない人と会話することは、難しい。ある程度知った人になると、仲良くなったりする。だから、新しい職場では、人を知ろうとするし、知ってもらおうとする。人と仲良くしたくないわけではないのだ。
管理と知らない人との会話が難しいのだから、独立して経営や営業など、やりたいとも思わない。
努力はできない。だから、好きなことを仕事にした。好きなことなら、人からは努力しているように見えても、自分にとってはそうではないから。プログラミングの本やweb記事を読んで、「その手があったか! すげー」とか興奮したりするのだ。




Modern C++ Design

Modern C++ Design

アンドレイ・アレキサンドレスク

「すごいプログラマ」になりたいとは思う。ただ、『Modern C++ Design』を読んで、興奮するのと同時に、必要なのは知識ではなく発想力であると痛感した。私には、そういうものが決定的に欠けている。学習の高速道路の先にある大渋滞を抜けることができないのだ。


私は、派遣会社の社員で、技術者として派遣されて仕事をしている。新卒で、正直言って、上記のようなことはろくに考えずに就職したのだが、最近は自分にあっていると思うようになった。NTT DATAの最終面接に通ったりしていたら、今頃哀しいことになっていたかもしれない。
主に要求されるのは、技術力と、派遣先の人とうまくやっていく能力。後者は、まあつまり、仕事仲間と仲良くやっていく能力で、仕事をするなら通常は必要なもの。
正社員ではあるが、技術者である限りは、普通の昇進は無い。技術者としての評価と勤続年数(!)によって、給料が上がる。
派遣のイメージが悪くなるような事件もいろいろ起こっているが、身の回りでは聞いたことがない。


新卒だったからだろうが、最初の派遣先では、単なる実験要員だった。ソフトウェアエンジニアの仕事を希望したのだが、卒業した学科を見たのか、電気の仕事だった。
「ここにいたら自分はエンジニアとしてやっていけなくなる」と思った。派遣先を変えてもらうことも難しそうだった。
だから転職活動をし、辞職の意志を伝えた。
そこで引き留められ、希望する職種への異動という条件で、留まった。以来、技術力の向上はやりやすくなった。飯を食うためには、まず技術。会社に依存しないですむように。
今のところ大きな不満はないが、私も世の中も会社も派遣先も変化する。危機感は常に持っている。どんな仕事に就いていようが、持っているべきだと思う。40歳でリストラされて、「この年で採ってくれるようなところなんて無いですよ」なんて言うおっさんは、自業自得だと思う。自分でそういう40歳になったんだろう。
状況は注視しておいて、折り合わなくなってくれば、またなんらかの行動が必要になるだろう。
確かに、「ある程度の経済的余裕」は欲しい。これまで書いてきた買い物ができる程度の収入があるといい。
だが、収入に合わせて生活を変えても、結構やっていけるような気もする。とりあえず、飯が食えて、本やCDやDVDが買えればいい。CDやDVDはレンタルでもいいか。音楽や映像やネットに触れるための道具は、もう持ってる。


ウェブ時代をゆく』は、以下の層に向けて書かれている。


この本は、生まれたからには何かしたいという思いを持ち、仕事を通して自己実現を求めている層を念頭に書かれています。

でも、若い人にはターゲットの層でなくても読んでもらいたいと思う。職種や業種は関係ない。昔からある仕事でも、webによって変わらざるを得ない。
提示されたものを、すべて受け入れて欲しいというわけではない。「別の生き方もある」と思うなら、それでもいいだろう。
ただ、自分がどんな時代に生きているのか。そして、これから生きていくのかは、知っておいた方がいいだろう。

正直

コメントしようかとも思ったのだけど、連想しただけで、まったく関係ないわけでもないんだけど、本件には全然関係ない話なので自分とこで。idトラックバック程度に。


ちょっとへぇな話 - finalventの日記


悪い(不道徳な)ことをしたら常に正直に言うべきだという論があるわけなんですが、それで誰も幸せにならず、むしろ不幸になる人がいるなんて場合、黙ってるべきなんじゃないかなと、私なんかは思います。
その罪をずっと背負って生きていくしかないんじゃないかと。
「正直」というのは自分が楽になるためのものにすぎないわけで、善とは限らないというか。
まあその、「けっこういる」と言われる、不道徳が罪だと思ってない人や罪を重荷だと感じない人には適用できないんですけど、一応例外として。


そういう主張がまるっきり通じないこともあって、その「まるっきり通じない」というのは別に珍しくないことだって知ってはいますけど、それで無力感がなくなるわけもありません。せっかく言葉が使えるのに。
きっと相手もそう思ってるんだろうな。

ゴールドベルク変奏曲、グールドの「再演」




Gould re-performance Goldberg Variations

J.S.Bach:

The Goldberg Variations

Gould re-performance

[Hybrid SACD]

面白いディスクを入手した。
グレン・グールドが弾くゴールドベルク変奏曲の1955年盤を、高精細度のMIDIデータに変換し、打鍵のタイミングや強さ、ペダリングなどを再現して、自動演奏させたもの。これを手がけたゼンフ・スタジオは「再演」と呼んでいるらしい。
店頭で見つけて、「けっ」とか思いつつも試聴してみると、思ったほど悪くない。ので購入。買ったのは日本盤だが、安い方が良いだろうと思って、リンク先は輸入盤。


SACDとCDのハイブリッドで、ステレオとバイノーラル録音が両方に入っている。SACDにはそれに加えて、マルチチャンネル。
バイノーラル録音」というのは、頭のかたちをした模型(ダミーヘッド)の両耳の入り口にマイクをつけて録音、ヘッドホンで聴くとその場にいるような音場が再現できるという代物。
ダミーヘッドは、試行錯誤の末、ピアニストの頭の位置より数インチ上に置かれたそうだ。これはなかなか面白くて、目の前にピアノの鍵盤があるのと同じく、高音は右、低音は左から聞こえる。


帰宅してから正座して聴いてみると、テンポは、確かにグールドのもの。でも、あの叩きつけるような音がしない。あの速さであの強さが出せないのかも知れない。
あと残響が気になる。一音一音が綺麗にばらけている、あの演奏がぼやけてしまっている。録音スタジオじゃなくて、コンサートホールで録ったのかな。「再演」技術とは関係ないけど。




Gould plays Goldberg Variations (1995)

J.S.バッハ:

ゴールドベルク変奏曲

グレン・グールド

(1955年モノラル録音)

1955年盤は、録音があまり良くない。ていうか悪い。モノラルだし、ノイズも盛大に入ってる。この点は、今回購入したディスクが勝る。音質だけなら、1981年盤よりもいい。
でも。
耳直しに、1955年盤を聴いてしまった。
まだまだ発展の余地がある技術なのだろう。