『恐るべき旅路』(松浦晋也)



恐るべき旅路

恐るべき旅路

火星探査機「のぞみ」のたどった12年

松浦晋也

2003年12月9日、火星衝突を避けるためのコマンドを最後に、火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道への投入は断念された。


『恐るべき旅路』は、航空・宇宙関係を専門とするノンフィクション・ライター松浦晋也氏による、宇宙科学研究所(現・宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究本部、略称「宇宙研」あるいは「ISAS(アイサス)」)による日本初の惑星間探査プロジェクトである、火星探査機「のぞみ」苦闘の記録と、なぜそのようなことになったか、どうするべきであったか、これからどうするべきかの考察である。
厳しい条件、さまざまなトラブルを乗り越え、「のぞみ」はようやく太陽を周回する火星軌道に到達する。
これは、日本の宇宙開発へのエールである。


エールであるが、「のぞみ」が陥っている苦境について宇宙研内で箝口令が敷かれたことに、松浦氏は珍しく、厳しく批判する。
曰く。
「のぞみ」は国民の税金で打ち上げられたものである。であれば、その状況は国民に報告されるべきである。
「のぞみ」のバランスウェイトに貼り付けられた小さなアルミ板には、27万694人の署名が縮小コピーされて記されていた。「あなたの名前を火星へ」キャンペーンに応募された名前である。そこには、さまざまな思いが託されており、それを無視してはならない。
そして、「のぞみ」の苦境は、広報的には実はチャンスであったのに、それを見逃した。


NASAがマーキュリー、ジェミニアポロ計画と連なる初期宇宙開拓において、湯水のように金を使えたのはなぜか。米国民がそれをよしとしたからだ。その金は税金であり、国民が認めないことに対しておおっぴらに使うことはできない。旧ソ連との冷戦が国民感情に大きく影響しているだろうが、それも含めて国民が「宇宙へ」と思ったから、あの計画は実行できた。
当然、国民が興味を失えば実行は不可能になるのであり、月有人探査に成功し、旧ソ連との宇宙開拓競争において勝利が決定的になってから、NASAの予算は大きく削減された。
そして、国民の目を宇宙に向けてもらうためには、広報は大変重要なのである。


宇宙は、人間の都合などお構いなしだ。
「なぜ宇宙は、こうも人間の生存に適した形で創造されたのか」だって? 偶然だ。重力定数がわずかでも小さいか大きいかしていたなら、人間はいなかっただろう。でも宇宙にとっては、まったく問題ない。
宇宙を探るというのは、偶然に存在している人間が、その限界を広げるということだ。
そのためには、宇宙の都合に合わせる必要があり、必然的に探査プロジェクトは挑戦的なものになる。
挑戦的なプロジェクトにはさまざま難関があり、それを乗り越えることはひとつのドラマであろう。しかし、それが戦略的に条件が悪かったためのものであれば、現場は本来必要のない負担をかけられていることになる。ぎりぎりの予算、短い開発期間、限界を超えた軽量化などは、不要な負担を開発現場にかけ「のぞみ」の寿命を削っていった。
不要なドラマが発生するプロジェクトというのは失敗である。ミッションの成功をもって、プロジェクトの成功と誤認してはならない。


で、あるのだが。


プロジェクトなんたらいうNHKの番組は観たことがないのだが、聞くところによると、ドラマチックなプロジェクトのドキュメンタリーらしい。人気がある(あった?)ようなので、ドラマチックなプロジェクトというのは、見ている分には好まれるらしい。
「のぞみ」の苦境がどのようなものだったか、挙げてみよう。
M-V(ミュー・ファイブ)ロケットの搭載可能質量に制限される軽量化への挑戦。地球を利用したパワー・スウィングバイが、バルブの不具合により失敗。そのための燃料の不足。それをリカバーするための、軌道設計の魔術師による芸術的な軌道。その後、通常の送信モードに切り替わらなくなり、ビーコンを発することしかしなくなった「のぞみ」。そのビーコンをコマンド応答に利用して、YES or NOを応えさせる1ビット通信の考案と、気の遠くなるようなその実行。ヒーターが停止したことによる推進剤の凍結。
次々と「もうおしまいだ」と思わせるようなトラブルが発生し、それにエンジニアが命を削って次々と対処し、最終的に「のぞみ」は太陽を周回する火星軌道まで行った。そして、最後の一押し、火星を周回する軌道への投入ができなかった。
非常にドラマチックなのである。
これが逐一公開されていたなら、多くの反響があったに違いない。実際、読売新聞に苦境をすっぱ抜かれてから、宇宙研は広報活動を再開し、その結果、さまざまな応援メッセージが届くようになった。


繰り返すが、この本は、日本の宇宙開発・探査へのエールである。
松浦氏は、時に厳しく批判しながらも、宇宙を目指すべきだという姿勢を決して崩さない。
大金がかかっているといえば、確かに一国民にとっては大金だ。でも国にとっては? JAXAの予算は、GDPにして日本の約2.5倍の米国NASAの1割強、日本の道路財源の1割にも満たない。(文部科学省平成20年度概算要求主要事項(PDF)平成20年度道路関係予算の概要(PDF))
国産ロケットはなぜ墜ちるのか』(松浦晋也)を読んでいても実感するのだが、これは典型的な安物買いの銭失いである。かけるべきところに金をかけないから、余計損するのだ。
半端に金かけるくらいなら、いっそのことやめてしまえ、などとは私は決して言わない。
人間の限界への挑戦云々ではない。宇宙への挑戦は、おもしろいのだ。こんなにおもしろい理系的イベントをやめてしまえという人が、子供の理系離れを嘆いているとするなら、自家撞着もいいところだ。


この本は2005年3月に、朝日ソノラマから出版された(現在は、朝日新聞社から出版され直されている)。「のぞみ」に最後のコマンドが送信されてから、1年強である。
現在、サンプルリターン型探査機としては世界初の小惑星イトカワ探査機「はやぶさ」が、イトカワへの探査を成功させ、地球への帰途についている。さまざまなトラブルに見舞われた「はやぶさ」は、その状況が逐一公開され、2010年6月に地球帰還予定だ。2011年頃には、「はやぶさ」の記録が松浦晋也氏の手によってもたらされることを、期待している。