『ΠΛΑΝΗΤΕΣプラネテス』

このエントリは、漫画『プラネテス』の内容に言及しています。ご注意を。




プラネテス 1巻

プラネテス 1巻

幸村誠

プラネテス』を読む

数ヶ月前だが、初めて漫画『プラネテス』(幸村誠著)を読んだ。実にいまさら。
アニメがよくできてると勧められて、では原作の漫画からと思って。アニメより漫画の方が好きなのだ。自分の「間」で読めるし、一つのシーンでしばらく立ち止まることができるし、かんたんにページを戻せるし。
それ以来、何度も読んでいるのだけど、ここまで今の自分を考え直すことを迫った作品もない。


作品がどれほど自分に浸透してくるかというのは、作中に自分の持っているものがどれだけ出てくるかにかかっている。その作中の「自分」を取っかかりにして作品に入っていく。なにが描かれていようと、そこに「自分」がいなければ、浸透してこない。ストーリーテリングが巧みだとか、絵がうまいとか、そういうのはおもしろさには直結するし、実際おもしろいのだけど、それだけなんである。それがダメだということではない。そういう本もたくさん持ってる。
かつて自分にあったものが出てきた作品は、それまでもいくらか読んだ。
プラネテス』では、いまの自分にあるものがあらわになっていた。以下、いくつか引用する。


「さァね。向いてなくてもモチベーション次第じゃねーの?」
「人間に限界なんて、絶対にねェ」
「なかよしこよしは自分の人生を生きる度胸のない奴の言い草だぜ」
「全部オレのもんだ。孤独も、苦痛も、不安も、後悔も」
「自分を鎧わずにこの大宇宙で生きていけると思うのか!?」
「どうして欲しい? 試しに……言ってみなさいよ」「なにも。なにも要らない」
「君の愛した人は、グスコーブドリだったんだよ。君のその愛が、彼の心をとらえた事などないのだよ」
プラネテス』より

「タナベ」が登場する作品はいくらでもあるのだけど、「タナベ」なんて存在は、自分の中にほとんど無かった。だから、せいぜい読んだその場でなにか感じるくらいで、すぐ忘れてしまう。
だが、「ハチマキ」が登場する作品には、触れたことがなかった。ハチマキの言うことにあまりに共感できてしまって、だから『プラネテス』は、そこから侵入してきた。
こういうのを見せつけられると、困るんだよね。確固としていたはずのものが揺らぐ揺らぐ。
それ以来、随分と考え込んでしまった。

宮沢賢治

プラネテス』には、分からない所も結構あって、そのへん理解したいということで、宮沢賢治をいくつか読んだ。
幸村誠氏は宮沢賢治を愛読しており、『プラネテス』にもその影響が色濃く出ているとのことなのだ。
読んだのは、新潮文庫『新編 風の又三郎』『新編 銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『新編 宮沢賢治詩集』の4冊。最初は資料のつもりだったのだけど、読んでみるとこれが実にいいんですな。また読み返さねばなるまい。『よだかの星』は、フィーの「おいちゃん」を思わせるものがある。
全てに編者の天沢退二郎氏の解説がついていて、解説なんて書評と同じであんまり読む気がしないんだけど、読み始めたきっかけがきっかけなので、一応目を通した。で、やっぱりというか、同意できない部分はある。
注文の多い料理店』収録の『土神ときつね』について。(以降、内容に触れるが、青空文庫無料で読めるので、なんでしたら読んでおいてもいいかも。)


狐は、奇麗な女の蒲の木の友達で、見栄を張って、いつもこぎれいな格好をして、学といくらかの金がありそうな振りをしていた。その解説にこうある。


その「赤剥の丘」の下の、「がらんとして暗くただ赤土が奇麗に堅められているばかり」の住居を暴露されるくらいなら、狐は死んだ方がましだと思ったであろう。
注文の多い料理店』「収録作品について」より

そうだろうか。
狐は、あるとき、蒲の木に、望遠鏡についての嘘をついてしまった。そしてすぐにこう思う。


ああ僕はたった一人のお友達にまたつい偽[うそ]を云ってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。よろこばせようと思って云ったんだ。後ですっかり本当のことを云ってしまおう。
注文の多い料理店』収録『土神ときつね』より

その「本当のこと」を云えぬまま、狐は死を目前にしてこう思う。


「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」
注文の多い料理店』収録『土神ときつね』より

彼は、蒲の木に嘘をついたまま死ぬことを、ひどく後悔しているのだ。天沢氏が「死んだ方がまし」とした「暴露」を、死ぬ前にやっておきたかったのではないか。
もっとも、天沢氏の解説には、明言はされていないものの「これは私個人の解釈ですよ」というニュアンスは感じられるのだけど。
(題名、引用の漢字仮名遣いなどは、すべて新潮文庫注文の多い料理店』より。リンクした青空文庫とは必ずしも一致しない)

プラネテス』の中の宮沢賢治



新編 宮沢賢治詩集

新編 宮沢賢治詩集

ロックスミスは、宮沢賢治なのではないか。
アニメ『プラネテス』の監督谷口悟郎氏は、「原作のタナベは宮沢賢治の影響が大きくて」といったことを言っていたが、それは宮沢賢治の物語のことなのだと思う。
『新編 宮沢賢治詩集』収録の『春と修羅』の序において、宮沢賢治はこう書いている。


これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
『新編 宮沢賢治詩集』収録『春と修羅』序より

見たこと思ったことをそのまま書きましたよ、と言えると思う。だから、宮沢賢治の詩は、その本人が書かれているのだろう。


いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾[つばき]し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
『新編 宮沢賢治詩集』収録『春と修羅』より


みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
『新編 宮沢賢治詩集』収録『異途への出発』より

ロックスミスがこのままの人間というわけではないが、「愛し合うことだけがどうしてもやめられない」と言うハチマキに対して、それがどうしてもできない修羅として描かれているように思う。


(三〇) 修羅 仏教の世界観である「六道」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の一つで、激しい争闘のたえない血なまぐさい領域。ここではそのような精神状態をさす。詩編春と修羅」では、詩人は「おれは一人の修羅なのだ」ということを発見、断言、慟哭している。
『新編 風の又三郎』収録『二十六夜』注解より

また、「ウェルナー・ロックスミス」という名前の「ウェルナー」はウェルナー・フォン・ブラウンから採ったのだろうが、「ロックスミス」は銃の専門家である「ガンスミス」に似ている。石の専門家。そして、宮沢賢治は、小学4・5年の頃鉱物採集に熱中し、「石コ賢さん」と呼ばれたそうだ。
一方で、タナベが捨て子であったことは、『雁の童子』童子を思わせるものがある。


「物語の人間」であるタナベと、その物語を紡ぎ出しながらも、自らを修羅であると断言した「現実の人間」に印象がだぶるロックスミス
そう考えると、『プラネテス』には、最初の印象以上に複雑な惑いが感じられる。