よしながふみと志村貴子の対談

『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』を立ち読みする。志村貴子氏のとこだけ。
そこしか読んでいないので、書名をタイトルにするのは避けた。買ってないので、アフィリエイトリンクにもしていない。


志村氏のエッセイ的なものといえば、あとがき、なかがき、インタビュー幾つか、あとブログ『青息吐息』くらいしか読んだことないのだけど、対談読んで新発見!などはあまり無かった。
作品にそのまま出てるんだろうな。そういう話もされていた。


「作品の中で一から十まで説明することはない、そこは読者に考えてもらっていいんだ」という話もあった。
先日、京極夏彦氏の『陰摩羅鬼の瑕』を読んだのだけど、あんまり読み込む気になれなかった。
だって、全部書いてある。だからあんなに分厚くなるんだ。こいつはここで何を思っているんだろうとか、想像する余地が無い。物語も、衒学的な部分も、まあおもしろいけど、はりあいがない。
作品って、たぶん作家の中にあるものから情報を間引いて不可逆圧縮したものだと思う。その圧縮を解く過程にはある程度決まり事があるのだけど、間引かれた部分が見せるノイズみたいなものが解釈に幅を持たせる。物語が展開していくごとに、そのノイズの元になったオリジナルの情報が正確に予測できるようになっていくが、エンディングを迎えても、あえて明確にされない部分もあって、そこは自由に解釈していいんだろう。
そういう、読者にゆだねられている作品で、作家が思いも寄らないかもしれない深読みをするのが楽しいのだ。


台詞の自然さにも気を遣っているとか。音読して、おかしくないか確認するという。
また先日のことだが、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』を初めて観たとき、冒頭から「こんなしゃべり方するヤツいねーよ」と思った。いや、おもしろかったよ?とても。エントリ一個書いちゃうくらい。
原作の台詞をそのまま使っている部分が多いので、不自然になりがちなのかもしれない。文字で読んでいても気がつかないが、音で聞くとあからさまに不自然になる。観てるうちに慣れちゃうけどね。
アニメの様式として、あのしゃべり方はありなんだろう。というより、ほとんどのアニメは「アニメのしゃべり方」をするんだろう。あれに慣れていると、劇場アニメ『時をかける少女』のしゃべり方に違和感を覚えてしまう。でも、『時かけ』のほうが自然。アニメの絵だから「あれ?」とか思う。



青い花 1巻

青い花 1巻

志村貴子

あと、気になったこと。
青い花』が「ストーリーらしいストーリーが無い」なんて言われたりしてるとか。
そんなことないでしょ。人ひとり描けば、そこに必ず物語があるものだと思うけど。
青い花』は一巻を読んだだけで、着地点がはっきり決められているのが分かる。そこに向けて描かれているものは、すなわち物語だろう。
キャラクターを否応なく動かす世界の仕組みを「ストーリー」と言っているのかな。セカイの終わりとか、ひとつながりの財宝とか、拾われ子だとか、そういうものを。それは、人を描くための題材でしかない。必須じゃない。
必須なのは人物描写であって、題材だけで構成された話なんて、おもしろくもなんともない。人物が細やかに描かれているなら、題材にかかわらず、魅力的になりうるものだ。