タバコについて、知ってることと、悟ってること

手元にタバコがあると、つい吸ってしまう、と何度か書いた。
タバコを切らして自宅にいるとき、わざわざ外に買いに出たりはしない。先日、手持ちのタバコを吸いきってから、週末はタバコ無しで過ごした。
そして、今日会社に出て、手軽にタバコが吸える状況に置かれたら、またタバコに手を出した。
手間を惜しんで吸わずにいられるのにな。


タバコなど必要ではないし害悪であると、知ってはいても、悟ってはいないということだろう。
ここで「知る」と「悟る」の違いは、『鉄鼠の檻』(京極夏彦著)に記されたものを、私なりに解釈したものとする。
かんたんにまとめると、ある規範に従うにあたって「心掛ける必要」が有るか無いかの違い。
その規範を「知って」いるとき、どうするべきか考えて判断する。その「べき」が多少なりとも労苦を伴うと、例えばストレスの多いときや酔っぱらっているとき、その規範から外れることもある。
「悟って」いるとき、考えることはない。反射的に反応する。状況は関係ない。血肉になっているというか。


例えば。
エアガンで撃たれたロボットが「痛い痛い」と言っていても、それは「撃たれたら痛い」ということを知っているだけであって、本当に痛いわけではない。
人間がエアガンで撃たれれば、本当に痛い。
「知る」と「悟る」には、そのくらいの違いがある。




禁煙セラピー

禁煙セラピー

タバコについてのいろいろは、『禁煙セラピー』を読んで、よく「知って」いる。
「悟る」ために、この一連のエントリを書いている。
いろいろ考えたり見つめ直したりしていると、あるとき、すとんと腑に落ちるのだ。それに気がつくときは、「なんで今、そんなことを」と思うくらい、ぜんぜん関係ないタイミングだったりする。また、気づかずに、いつのまにか血肉になっている場合もある。


「タバコ吸っちゃいました」という反省文の一面も、大いにあるけど。