「議論」と「スルー力」について

スルー力

スルー力」といっても、なにをスルーする力なのか、明確に定義されていないので、人によっていろいろブレが出るわけですよ。だから、そこをはっきりさせないで論を闘わせても、対話がすれ違ったりするわけです。


最近、精神衛生上安楽に過ごせればいいとかそういうにおいのする「スルー力」ということばに違和感を感じていた折、太宰治の「如是我聞」などの著作を読んで、彼のように全てにおいてしつこく自意識過剰なほど言及して「空気読め」とか馬鹿にされるようなほど愚直に反応していこう、と思った。

ここで言及される、『jkondoの日記 - スルー力なんて無くていい』を読んだときのぶくまコメントに、こんな風に書きました。


2006年12月06日 ume-y word, communication, net 「スルー力」の定義が曖昧だから、人によって捉え方が変わっているだけのような。「web2.0」みたい。http://zeromemory.sblo.jp/article/1972366.html

web2.0」というのも、はっきりした定義がないんですよ。だから、web2.0を論ずるにあたって、まずどういったものを「web2.0」とするのか、明確にしておかないといけない。これを怠ると、いらん誤解を受けたりするわけです。「結果としてwisdom of crowdsを生み出すことになったCGM的な仕掛けとムーブメント」くらいに思ってるんですが。


そういう「言葉の定義をはっきりさせましょう」というのは、ぶくまコメントにも書いた『suVeneのあれ: 言葉の定義を曖昧なままに混同して論じるのは面倒(が起きやすい)』で論じられています。


スルー力」というのは、はてなキーワードには「高林哲氏によって提唱された」なんて書いてありますが、単なるネタであって、そもそもしっかりした定義がありません。定義を読み取るとするなら、このあたり。


ものごとをやり過ごしたり見て見なかったことにしたりすることを「スルーする」と呼ぶようになって久しい今日この頃ですが、このたび「スルー力」、すなわち、スルーする力に関する、 ITエンジニアのためのカンファレンスを開催することになりました。ユニークな靴下でおなじみの某社CTOをはじめとする豪華なスピーカ陣による講演が行われる予定です。

「人生の大半の問題はスルー力で解決する」とはスルー力研究の専門家の間では共通のコンセンサスですが、昨今頻発するネット上での炎上事件、人間関係上のストレス問題、あるいは仕事上での燃え尽きの多発などの事情から、スルー力に対する社会的、特にITエンジニアの間での認知度が足りないのではないか、という問題意識が今回のカンファレンス開催の背景にあります。

これを読んで私は、「スルー力」とは「ひっかかるんだけど、それを何とかしたところで、素晴らしいものが得られるわけでもない、困ったことが無くなるわけでもない、ただただ面倒なものを、スルーする力」というようなものであると認識しました。普段、そういったものをスルーしているからかもしれません。
『アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「集合愚をスルー力」の価値』で用いられた「スルー力」が、これに近いと思います。
以降、「スルー力」という言葉は、この意味で使います。

「議論」

「議論」という言葉も、私の認識とは違う意味で使われることが多いのですが、別にそれが間違ってるというわけでもないようです。和英辞典を引いてみると、多くの単語が出てきて、そのほとんどが「争い」的な意味を含んでいます。


議論
controversy // discussion // disputation // dispute // haggle // niff-naw〈米〉 // sparring // yike〈豪話〉

なんで和英辞典かというと、国語辞典を引いたら、


大辞林 第二版 (三省堂

ぎろん 【議論】

(名)スル

それぞれの考えを述べて論じあうこと。また、その内容。
「―をたたかわす」

としか書いてなくて、ちょっと大雑把すぎるなあと。


で、「議論」というのは、私の認識では「discussion」です。


discussion
【名】 話し合い{はなしあい}、論議{ろんぎ}、討論{とうろん}、議論{ぎろん}、討議{とうぎ}、審議{しんぎ}、協議{きょうぎ}、論考{ろんこう}、考察{こうさつ}
・ This needs some discussion. これはちょっと話し合う必要がありますね。
・ The discussion lasted until midnight. 議論は真夜中まで続いた。

『議論のしかた』というサイトに述べられている「議論」は、このことだと思います。
簡単に言うと、「議論」とは、質問に対する解答を得るためにするものであると。
最初に質問があり、それに解答が出されます。その解答に疑問があれば、さらに質問を重ねます。その質問にまた解答が出され……というように、疑問を端からつぶしていくことによって、最終的に最初の質問の解答を得るというものです。
つまり、id:riow89さんが見たという太田光氏の「議論」そのものです(私は見てませんが)。
以降、「議論」という言葉は、この意味で使います。

議論とスルー力

言葉というのは、それだけでは伝わらないものです。
こちらが伝えたいことが、無意識でも、すでに相手の中にあるとき、言葉は伝わります。あるいは、相手の無意識にその言葉が残って、その後、相手が得たものと反応して、ようやく伝わることもあります。何年もかかったり、死ぬまで伝わらなかったりもします。
従って、どれだけ言葉を重ねても、まるで伝わらないということがあります。そりゃもう、「こいつが使ってるのは、もしかして日本語じゃないんじゃ」っていうくらいの無力感。
前提としているものが違うからです。伝えるためには、「前提」を構築する土台になっている「前提」を、どんどん遡っていって、お互いに同意できる「前提」を見つける必要があります。「我思う、故に我有り」まで遡りたくはないものですが。
そこから始めないと、議論は成立しません。しかし、これはけっこうな労力が必要です。
で、それだけの労力を費やした結果、なにか素晴らしいものが得られるか。困ったことが無くなるか。
そういった見通しが無いものは、スルーした方がいいんじゃないですかね。持ち時間には限りがあるんだし。
そして、それを見極める能力が、スルー力