『時をかける少女』(アニメーション映画・細田守監督・2006年夏公開)

時をかける少女』を観る

大変良い映画でございました。
いい年して涙ぐんでしまったりしたが──いい年だから涙腺ゆるみまくってるとも言えるが、映画が暗闇で上映されるものであって、ほんとうに助かった。「多感な年頃」なんていうが、歳を重ねるごとに違うものに感じ入るようになるだけであって、いつでも多感なんじゃないかと思わないではない。高校時分にこの映画を観たら、あんまりなんにも感じなかったと思う。そういう高校生だった。
なにを感じて、なにを想ったかとかは、こっぱずかしくてとても書けたもんじゃない。だから気に入った作品があっても、具体的に感想を書くことなんてほとんど無くて、『ΠΛΑΝΗΤΕΣプラネテス』のエントリのように、たいてい解釈や考察に終始する。ま、感じたことって、文章にしづらいというのもある。
とりあえず、多少でも興味があるなら、劇場で観れる内に絶対観ておけと強くお勧めする。

『ガーネット』

劇中で流れる奥華子氏の歌『ガーネット』。
どっちかというと、挿入歌『変わらないもの』の方が涙腺に効くけど、作品と相まってこちらもいい。
「あなたと過ごした日々をこの胸に焼き付けよう。思い出さなくても大丈夫なように」
でも、この歌詞を聴くと「忘れねばこそ、思い出さず候」と言ってるバトーを思い出して難儀する。

時かけクロック

『速報ダム日和』「時かけクロック作っちゃった」


タイムマシンのあのカウンタの字体のクロック。JavaScriptで実装されていて、ActiveDesktopを使えばデスクトップに貼り付けられる。とはいえ、私はウィンドウをたくさん開きっぱなしにするので、デスクトップなどほとんど見えない。
そのような向きに、ではないだろうが、スクリーンセーバーぽく動作するバージョンも同梱されていて、『まちみのな::C#でスクリーンセーバー』と組み合わせると、スクリーンセーバーにできて大変良い。
時かけクロックを作ったid:dambiyoriさん、WebSiteScreensaverを作ったささおさん、ありがたく使わせてもらってます。

時をかける少女』のタイムリープ

『Yahoo!ブログ - エンジニア★流星群 @Tech総研』「理系の人々」において、「SFの考証がわりと甘め」と書かれたとおり、『時をかける少女』のタイムリープはSF的に解釈するのは少し無理がある。
もちろん、上記「理系の人々」でも描かれたように、そんなことで良い映画だという評価が揺らぐことはまったく無い。しかし、これが「もちろん」であることは理系的であるらしい。
また、「甘め」だと思いつつも、物語の枠組みの中で無理矢理にでもつじつまを合わせようという衝動もある。不思議なものを見たときに、「なにが起こっているか」「どういう仕組みになっているか」を解明したいと思うのも、理系的であるようだ。たしかに、大学時分の文系学部の友人達は、そういうことにまったく興味を示さなかった。
というわけで、『時をかける少女』のタイムリープでなにが起こっているか、がんばって解釈してみようと思う。無粋なのは重々承知しているが、それでも考えずにはいられないんである。
なお、作品の内容に触れまくった完全なネタバレなので、ご注意ください。


時をかける少女』では、過去にタイムリープした際、過去の自分とタイムリープしてきた自分が鉢合わせることがない。タイムリープ後は、その時間の住人に戻る。
ということは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように、留まることのない時間の流れを離れ、目的時間(「目的地」みたいな意味。造語)まで移動してから、再び時間の流れに合流するするのでは無いと考えられる。
おそらく、時間の流れを止めて、巻き戻すのだ。時間の流れから離れ、時間を巻き戻し、目的時間の頭出しができたら、時間を再生し、合流する。あえていえば、『スーパーマン』のあれに近い。『スーパーマン』はもっと無理があったが。
また、自分が知っている未来までしか行けないのも、巻き戻された時間を元に戻すしかできないからだと思われる。その先の時空間は存在せず、これから発生するのだ。
時間を巻き戻さない『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的タイムリープにおいては、過去に戻って歴史を変えてしまった際に、そこから地続きでなくなってしまった未来が、パラレルワールドとして依然として存在し続ける可能性がある。パラレルワールドの発生によってなにが起こるかはまったく分からず、ドク・ブラウンの言うように宇宙が無くなってしまう可能性もある。
一方で、時間を巻き戻すという操作は、パラレルワールド問題は回避できるが、原因が結果を律するという因果律に、文字通り真っ向から対立して結果に原因を律させる操作である。
安全・確実性は『時をかける少女』的タイムリープの方が高いといえるが、時間をすべて人為的に操作する必要があるので、実現可能性は低い。


このように考えると、作中、巻き戻しだけでは説明できない、二つほどの課題が思いつく。


まず、真琴が電車に跳ねられそうになったとき、自転車が電車にぶつかって破壊される描写があった。
ところが、時間を巻き戻すのであるから、タイムリープを開始した時間以降の時空間は存在しない。
電車にぶつかってしまったら、おそらく即死で、タイムリープどころではない。真琴は、その直前でタイムリープしているはずだ。そして、繰り返すが、タイムリープ後の時空間は存在しない。自転車は破壊されないはずだ。
では、この描写はなにか。
無理なく考えられるのは、真琴の予想した未来であって、つまり冒頭と同様の、感じている本人には現実か夢か区別かつかないという描写。
あるいは、あれが現実に発生したことだとすると、無理矢理に考えて、功介と果穂が跳ねられたシーン。真琴は憶えていないが、彼らには実際に跳ねられる未来があった。


ふたつめは、千昭が見せたタイムリープ
真琴よりもかなり高度なことをやっていて、これも単純に巻き戻しだけでは説明できない。
考えてみれば、真琴はタイムリープのマニュアルを読んだわけでも、訓練を受けたわけでもないわけでもなく、たまたまできたやりかたで、たまたまできたことだけをやっていたわけだ。PC初心者のように。
タイムマシンは、実はもっと高機能であるのだろう。
千昭はまず、功介の通夜かなにかで、責任を感じて泣きじゃくる真琴に会い、最後のタイムリープを使ってしまうことにする。功介を助けたいというのもあったろうが、真琴が泣いていることに耐えられなかったのではないか。未来に帰れなくなって、残りの人生逃げ回って過ごす方がましだと思うくらい。未来に帰る前、少しだけ戻ってきたときのように。
そして、時間の流れから離れ、巻き戻しを始めるが、途中で「止まれー!」と叫んでいる真琴を拾い上げて、功介がまだ家にいる時間まで巻き戻しを続行し、時間を一時停止する。これによって、真琴はケガが治り、タイムリープのカウンタが戻る。おそらく、タイムリーパー自身は自らの肉体ごと時間の流れから離れるのだが、同行者は精神とか魂とかゴーストとかそういったものだけしか離れることができないのだろう。
一時停止した時間の流れに真琴を戻し、千昭は功介の家へ自転車を取りに行く。戻ってきて、真琴の近くに来たところで、真琴の時間だけを再生する。
どうやってかといっても、「『時をかける少女』のタイムマシンは、そういうことができるのだ」という説明しかできないが、手順としてはこういうことだったのだろう。


なぜ千昭が、真琴を拾い上げたかというと、お別れを言うためだったのだろう。
ではなぜ、拾い上げたのが目的時間ではなく、巻き戻しの途中だったのか。
真琴も一緒に巻き戻すと、彼女はなにが起こったか知らない状態に戻る。なにが起こるはずだったか説明をするよりは、途中で拾い上げる方が簡単だったのだろう。
また、なぜタイムリープ開始時点から連れて行かなかったかというと、目の前で友達が死ぬという記憶を、消してやりたかったからかもしれない。


真琴が「あたし黙ってるよ。誰にも言うわけないじゃん」と言ったって、未来では千昭が帰ってこなかったらすぐ分かるのだ。自分の知っている未来までしか戻れないってことは、過去に向かって旅だった者は、その直後に帰ってくるのだから。
そして千昭は姿を消す。


と、ここまでは、細田版だけを観たところでの考察。
そのあと、筒井康隆氏の原作を読んだら──短編なのですぐ読める──過去の自分と鉢合わせないのは、時間にそういう仕組みがあるから、ということになっていた。
がーん、そんなあ。そんな仕組み、あるかどうか分かんないじゃないですか。まあ、鶴田謙二作品で宇宙空間にエーテルが存在しているように、フィクションで現実の科学に準じる必要はないんだけど。
なお、ここまで読んでる人は知っていると思うが、細田版は原作そのままのアニメ化ではない。舞台は原作エピソードの約20年後であるが、原作のシーンが随所でモチーフとして用いられており、なかなか興味深い。


変更履歴:
2006/10/23 ささおさんのお名前修正。大変失礼しました。