作品の処分を決めるのは誰か

末次由紀氏が、他人の作品をトレスだの模写だのしてたという件。


あいにく『エデンの花』は見たことがないどころか、末次氏自身も存じ上げない。パクり検証サイトもめんどくさいっていうか、うざったくて見る気がしない。
この手の検証サイトは以前見たことがあるけど、特に独創性溢れる構図とも思えない絵を比較している。真似してもしなくても、大して結果は変わらないんじゃないの?という構図。そんなのどうでもいいだろ、と思う。
ものすごくオリジナリティ溢れまくった、普通には思いつかないような構図であるんなら、話は違う。例えば、山田芳裕氏が『デカスロン』で見せたものすごいパースのついた絵とか。しかしあれは、真似しようにもできない。他の作品に取り込める構図じゃないから。オリジナリティってのは、そういう、他の追随を許さないところにあるんじゃないかと。
資料になりうる絵っていうのは、極力、独創性のない物でなければならない。そういう絵を、トレスだの模写だのしたというのは事実としてあるんだろうけど、だからどうなの?って思う。


そんなわけで、つるし上げるには格好のネタかもしれないけど、別に重要じゃない話。


で、以上の重要じゃないことに関する議論とは、別にして。
今回のその、全作品回収・絶版というのは、槇原敬之氏が覚醒剤で捕まって全CDが回収された事件を彷彿とさせる。
当時と同じ感想を抱くのだけど、一度世に出た作品を、そんなことで回収してはならないと思う。裁判所命令があったわけでもなし。誰かに深刻な問題が発生する──プライバシーが侵害されるとか──訳でもなし。商売になってない訳でもなさそうだし。
作家に代わって作品を世に出す会社として、ものすごく及び腰に見える。「こんな会社に作品を預けて大丈夫だろうか」って思う作家もいるんじゃないかな。作品をどうするかは、作家が決めることじゃないかと。
末次氏からの申し出があったというのなら話は別だけど、そういう話も聞かないし。


参考リンク:

レスと模写は、著作権法的には、いっしょらしい。
「小説を手で書き写すか、コピーするかの違い」なんだそうだ。
それだけに終わっていないかどうか、すなわち+αとして独創性があるかどうか、が法的には問題になるらしい。

この考察は素晴らしい。
でもそれは、私が、自分のブログにクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの「帰属」を適用するような人間だからかもしれない。