モヒカン族

いつ頃からある言葉か知らないけど、「モヒカン族」を知ったのは、失言小町の7月3日のエントリ


モヒカン族
モヒカン宣言


言葉の力という危険が危ないものを、微妙に飼い馴らしながら、日本はここまで来た。誰も言葉の力を信じない国になった。この国で「リアルワールド」と言ったら、それは言葉を除く全てのことだ。言葉はバーチャルだとみんな思っている。政治家の力量を彼が使う言葉の力で測ったりはしない。企業価値を蓄積した言葉の量で測ったりはしない。

そういう国でモヒカン族は実に異端だ。モヒカン族は、言葉だけを信じる。言葉を発した奴を信じない。言葉原理主義者だ。

(強調は引用者による)


そんなモヒカン族的なこと、以前書いたような気がするなあ、と思って探したら、ふたつ見つかった。



今のところ、ネットというのは、気を遣えば、ある程度の匿名性は保てるのであって、したがって誰が書いたかというのは疑いだせばきりがない。mixiの非匿名システムだって、抜け道はいくらでもあって、例外ではない。

そういった場では、テキストの内容それ自体で信頼性が担保される



ところが、万人にとっての「正しい解釈」は、存在しない。

作品というものは、作者と受け手の思惑から独立して、それ自体で成り立っている。したがって、作品の解釈は、たとえ原作者がその意図を言葉にしたとしても、万人に正しいものにはならない。

百者百様の解釈があって、各々つきあわせれば矛盾するだろうが、すべてが正しい。作品が表現しているものは、受け手が受け取ったものでしかない。 「正しい解釈」は、作品と受け手の1対1間のみで、成立する。


モヒカン宣言には、共感する部分も多い。この通りにできれば、楽だと思う。
私はモヒカン族だったのかと思ったが、しかし、キーワードを読んでいくと、過激な部分も多い。これを実践したら、角が立つことも多かろう。
モヒカン族モヒカン族の不幸なすれ違いの例が、「ムラ社会」キーワードにあった。


「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」

確かにこれは人格否定ではないのだけど、好きなものをけなされれば、気分が悪いだろう。
モヒカン的でない人に対して、歯に衣着せぬ物言いをすれば、角が立つことが多い。枝葉末節にこだわって本題からそれる人もいるし、書いてないことに絡んでくる人もいるしで、まったく建設的な話ができなくなる。効率がいいはずのモヒカン的コミュニケーションをするつもりが、逆に効率が悪くなってしまう。


以前も書いたが、会話の目的は、「思いを言う」ことではなく、「思いを伝える」ことにある。
いかに言葉が正しかろうが、受け手がそれを理解する気にならなければ、その「正しさ」は伝わらない。
無差別にモヒカン的な言動をして、「私は正しいことを言っている。理解しない方が悪い」などと言うのは、目的を取り違えた、非効率的な、モヒカン的でない行動といえる。
肌触りのいい、喉越しのいい言葉を使い、それをするりと飲み込んでもらう方が効率がいい場合も多い。効率を優先するなら、これもありかと思う。
もっとも、私の場合は嫌われたくないという思いもある。だから似非モヒカン族のヘタレた意見なのかもしれない。